こんにちは、ボウズです!
ヴィンテージの、特にワークウェアはそのコンディションによって大きくその雰囲気が変わります。
同じメーカーが同じ年代に作った、同じシリーズの服でも、デッドストックとサンフェイドもの、ダメージもので全く違います。
後者をフランス語で、vêtements vivants(ヴェトモン ・ヴィヴォン)またはvêtements vécus(ヴェトモン ・ヴェキュ)と呼んでいます。「生きている服」、「生きた服」と言う意味です。
素敵な表現ですね。
ところで、美しさがアートの十分条件ではないと思っている私の個人的な考えでは、ヴィンテージのワークウェアやミリタリーウェアがそのままアートになりうる可能性は限りなく低いと思っています。
色褪せやリペアはとても美しく惚れ惚れすることも多々ありますが、そこにアーティスティックな哲学が含まれているとは考えがたいからです。
太陽による日焼け。確かに自然の力は喜びであったり安らぎ、反対に恐怖など様々な感情を抱かさせるものですが、そこに人間的なフィソゾフィーはありません。
労働によるダメージ。これはあくまで労働と言う生活の一端から為るものです。身の周りの生活がアートのテーマ、素材となることはあっても、それ自体が能動的に芸術作品となることは大変難しいです。
リペア。家庭内で行われたであろうこの過程は、労働によるダメージの一部とも言えます。どれだけ美しいリペアでも、それを裁縫した人がクリエイティビティのある哲学を持っていなければアートにはなり得ません。それを持っていればなり得ると思いますが、可能性はかなり低いのではないでしょうか。
例えばマルタン・マルジェラが賞賛されているのはこういった部分にあります。彼は蚤の市で買ったワークウェア一着を手に取って、それが製造された本来の目的である「ワークウェア」としてのキャラクターを脱構築することで「ワークウェア」からそうではないものにしました。その哲学があるからこそ、マルジェラの服はアートであると考えることができます。
では、古びたヴィンテージの服が持つ美しさ以外のキャラクターは何でしょうか。
私は「時間」だと思います。
自然の力も、労働によるダメージも、そこには尋常でない時間がかかっていて、日差しや雨風、それを着ていた労働者の記憶が全て詰まっています。
どんなクリエイションもそれを超越することは不可能です。
vêtements vivants、vêtements vécusが、それを手にとった人に感動を与えられるのは、美しさよりもその時間や記憶を持っているからではないでしょうか。
どこで作業していてどんな仕事をしていて、その仕事でどんな労働をしていて、仕事で着ていたその服をどこにどのように保管していて、破れやほつれを家庭内で誰がどんな風に修復して、そんな情景を、服一着から想像することができます。
近現代のファッションクリエイターがヴィンテージを参考資料として探し求めている理由は、そんなところにもあるのかもしれません。
ダメージのあるヴィンテージ服に出会った時は、その様相が美しい・美しくないではなく、ぜひその服が持つ見えない美しさを覗き込んでみてください。
むうちブロカント
ボウズ
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